タイと日本、知られざる交流の歴史

タイと日本、知られざる交流の歴史

公開日 2022.10.04

在タイ日本大使館のホームページを見ると、「今から135年前の9月26日、タイと日本の間で『日暹修好と通商に関する宣言』という条約に署名が行われ、正式な外交関係が開始されました」と書かれている。当時のタイの国名はシャム「暹(羅)」で、まだタイ「泰」に改名(1937年)されていなかったことに改めて気づく。今年は日タイ修好135周年記念という冠を付けたさまざまなイベントが行われている。前号で紹介したバンコク日本博、そして今号のFeatureで紹介したTJRIビジネス・ネットワーキング・レセプションもそうだ。日タイ関係は特に1985年のプラザ合意に伴う急激な円高・ドル安を受けて日本の自動車など製造業が一斉にタイなど海外に生産拠点を移したことで、バンコクは世界有数の在留邦人社会を有するまでになった。しかしもちろん、タイと日本の「修好」はもっと昔から断続的に続いてきた。

セラミックロード

「陶磁器の背景にはそれを作った人がいる。そしてそれを運んだ人と売った人がいる。さらにそれを使った人がいる。・・・タイの陶磁器の日本への輸出は14世紀ごろから始まり、15~16世紀が最も盛んで、17世紀には衰退した。スパンブリー県のバーンプーン窯の製品が鹿児島県の神社に伝わっている。・・・タイの陶磁器は沖縄県、鹿児島県、福岡県、長崎県、佐賀県、大分県など九州を中心に日本国内各地で発掘調査による出土が確認されている」

9月14日からタイ国立博物館で始まった「日本とタイの陶磁器交流-貿易と文化交流の永遠の伝説」をテーマとする有田焼の展覧会(12月14日まで開催)の関連イベントとして9月14日に行われた講演会で、佐賀県立九州陶磁文化館の鈴田由紀夫館長は日タイ間の陶磁器交流についてこう概観した。古くからタイの陶磁器が日本に渡ってきていたという話をどれだけの日本人が知っているだろうか。

鈴田氏はさらに、「日本の陶磁器の歴史では、陶磁器に文様が描かれるようになったのは16世紀末の唐津焼からで、それまでは文様が魅力的なスコタイなどの陶磁器が輸入され、珍重されたと思われる。白くて硬い磁器製品である有田焼は17世紀から始まり、17世紀半以後にタイなど東南アジアへ輸出されるようになった。有田に隣接する武雄で生産された陶器も17世紀後半にタイへ輸出されている」と指摘。その上で、「中国産の絹が中央アジアを横断してヨーロッパにもたらされる古代の交易路がシルクロードだ。これに対し、東洋の陶磁器が船で運ばれる交易路をセラミックロードと呼んでいる」と解説した。

鈴田氏によると、日本に輸入されたタイの陶磁器は産物を運ぶ容器としての利用だけでなく、宋胡録(スンコロク)と呼ばれ、茶道具の1つである「香合」など美術工芸品としても珍重されたという。そして鈴田氏は日タイ間の交易について、「陶磁器以外でもタイから日本に運ばれたものに鹿革がある。そのほか毛織物、砂糖、蘇芳(すおう)、象牙、胡椒なども長崎に来ている。一方、日本からタイへは有田焼以外に腰刀など多くの日本刀がもたらされた」と指摘。1351年から始まったアユタヤ王朝について、「アユタヤの日本人町には最盛期には1000人以上の日本人がいたとされ、そのリーダーだったのが山田長政だ」とし、「アユタヤを中心に有田焼が輸出される下地を作ったと考えられる」との見方を示した。

貿易志向の強かったアユタヤ王朝

山田長政は、一般的日本人の間でもタイにかかわった歴史上の人物では最も知られた名前だろう。沼津藩主の駕籠かきを務めた後、1612年ごろ初めてタイに渡り、アユタヤ国の高官に上り詰めたものの、政争に敗れ南部ナコンシタマラートの太守に転じたあと、1630年に同地で没したとされる。「日・タイ交流六百年史」(石井米雄・吉川利治、講談社、1987年)は山田長政について次のように記している。

「タイ人にとっての長政にはふたつの顔があった。まず、対日貿易の根拠地でありアユタヤ日本人町の頭領として、タイ物産の輸出を促進するという『在留日本人貿易業者代表』としての顔である。長政はその持船をバタビアに派遣し、オランダ東インド会社総督にも書簡と贈物を呈上して交易を求め、これにタイ米を輸出している。・・・もうひとつの顔は、日本人義勇軍という、傭兵軍事業団の統率者としての『職業軍人』の顔である」とした上で、後者の顔ゆえに王室の政争に巻き込まれ、中央政界から抹殺されたとの見方を示している。

同書は、アユタヤ日本人町、山田長政以外にも、唐船、朱印船、そして、その前の琉球船の活躍まで日タイ間の交易の歴史を丁寧にひも解いている。例えば鈴田氏も言及した宋胡録やスコタイ窯などについて詳細に説明。「国内の消費のために生産されていた中部タイの陶磁器は、15世紀までには完全に輸出商品の品目に数えられるに至っていた。それはアユタヤ王朝が、貿易志向の強い王朝だったことによる。スコタイ、サワンカローク(宋胡録の語源)の陶磁器は日本以外にもインドネシア、フィリピンなど、アジアの各地で大量に発見され、その販路の広さを物語っている」と解説している。

モンスーンがつなぐ、タイと日本

個人的に興味深いのは朱印船貿易の前に琉球船が活躍し、沖縄が「中国と日本本土の製品を東南アジアに運び、東南アジアで得た商品を中国と日本本土へともたらす」中継貿易基地だったことだ。同書によると、中国産の磁器が「朝貢貿易によって、まず中国から琉球にもたらされたものが、さらにタイに再輸出された」ほか、「もうひとつの中継貿易品は日本本土からのもので、日本刀、扇子がこれにあたる」という。一方、タイからの輸入品は、蘇芳(蘇木、すおう)、更紗。薔薇露水、酒類で、特に最大の輸入品目は蘇芳で、「蘇木は琉球から中国への再輸出品に入っているが、日本本土にもかなり運ばれたものと思われる」と推測している。

そして同書は沖縄とタイを結ぶ航路について、「貿易船はいうまでもなく帆船である」とした上で、一般に「タイなど東南アジアの国に行くには、秋から吹き始める東北モンスーンに乗って南下する方法がとられた」という。8~10月ごろ琉球を出港し、アユタヤ港に到着後、数カ月間、「便風」を待ち。翌年の5、6月に、南西のモンスーンが吹くのを待って帰路についたと説明している。那覇からアユタヤまでの航海日数については「おおかたの研究者は、四、五十日ぐらいだったと考えているようだ」という。

昨年初めごろ、ルクトゥンなどのイサーン音楽を紹介するコラムを書いた時に、「タイ人の踊り、特に手の動かし方は沖縄の『カチャーシー』と極めて似ている。昔、徳島に駐在していた時に阿波おどりの繊細な手の動かし方に感動したが、タイの踊りは徳島の阿波おどり、沖縄のカチャーシーと基本形は同じではないかと思った。日本人の先祖の一部は東南アジアから黒潮に乗って沖縄、四国などへ流れて来たとされる。同じ黒潮文化が根付いているのだろうと実感する」とのコメントを付けた。すると沖縄からタイに移住して長い日本人から、手を挙げる高さが違うが、ほぼその通りだといった内容の感想をいただいた。タイと沖縄、そして日本の交流の歴史ではまだまだ知られていないことが多そうだ。

THAIBIZ Chief News Editor

増田 篤

一橋大学卒業後、時事通信社に入社。証券部配、徳島支局を経て、英国金融雑誌に転職。時事通信社復職後、商況部、外国経済部、シカゴ特派員など務めるほか、編集長としてデジタル農業誌Agrioを創刊。2018年3月から2021年末まで泰国時事通信社社長兼編集長としてバンコク駐在。2022年5月にMediatorに加入。

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